川のにほひ その七
訪 問
今年もまたお盆の季節がやってきた。
今年は仕事に追われ、親の顔を見に行くことも無く夏が過ぎていきそうだ。
年老いた両親と遠く離れて暮らすことの親不幸を、しみじみと感じることが多くなった。
私の釣の原点は、父親と通った近所の川.........。
そしてもう一人の存在.....。
それは父親の弟。叔父である。
毎年夏休みになると、父親の実家に帰省するのがきまりだった。
汽車に3時間程揺られ、その車窓からは夏色に輝く瀬戸内海が見え、いくつかのトンネルを通過することも魅力だった。
当然汽車には冷房など付いているはずも無く、みんな汽車の窓を開け、入り込んで来る夏の風を満喫していた。帰省の朝は母親が弁当を作り、水筒に麦茶を入れ、一人忙しく動き回っていた。田舎のローカル線から山陽本線に乗り換えるとお弁当を食べることが許された。今のように汽車の本数も多くはなく、ましてお盆近くの帰省ラッシュもあり、ホームでは長い間列を作って並び、やっと乗り込んでも家族四人が並んで座れることは滅多に無かった。
ホームに入ってきた汽車には、当時二種類の列車があり、一つは客車全体が濃い茶色に塗られた車両で僕たちは「チョコレート電車」と呼んでいた。でもこの車両はいわゆる「ハズレ」で、もう一種類の車両....全体が緑色で窓の幅にオレンジ色に塗り分けられた列車....がホームに入って来ると「アタリ」だった。この車両には天井に扇風機が付いており、子供心に「近代的」な電車だった。
車中では見知らぬ同乗者が離れた席に座る私たち親子を気遣って席を替わってくれたり、お菓子をくれたり(私の母親も近くに座った子どもがいると、お菓子をわけてあげたりしていた)と、のどかな光景がそこここにあった。
さて、実家の叔父であるが、僕たちが帰省すると、決まって裏の川(大きな一級河川)に連れて行ってくれた。僕は一日中でも釣をしていたかったが、「暑いから」と言って、決まって夕方からの出撃だった。
その川には、当時(昭和40年代)でさえ珍しくなっていた和船が何艘か係留されており、その多くは朽ちていた。夜になると舟が川面を照らしながらゆっくりと流れていくのを何度か見た記憶がある。カーバイトの灯りで鮎を捕っているということだったと思う。
叔父は独身で子どもが居ないためか、とても良く面倒を見てくれ、とりわけ私をかわいがってくれた。それは他の従兄弟たちが集まった時でも同じだった。
私と叔父との密かな目標は「ウナギ」を釣ることだった。夕方からハエなどを釣り、それを餌に夜釣りに突入するのだ。父親が同行することもしばしばだった。年によっては、帰省した私たちを庭の片隅の大きな瓶の中でウナギが待っているということもあった。
そんな夏が毎年のあたりまえのできごとだった。
私が中学1年生の夏、初めて鯉を釣ったのもそんな繰り返しの中だった。
中学・高校と部活などで夏に帰省する機会が少なくなり、大学に進むと帰省は年末だけになり、一緒に釣りに行くことも無くなってしまった。ただ、私の進んだ大学が叔父の母校だったこともあり、叔父は大変喜んでくれ、普段酒を飲まない叔父もこの時ばかりは学生時代の話とともに大いに酔ってくた。
私が故郷から遠く離れた北海道に赴任した年の初夏、ポンコツ住宅の呼び鈴が鳴った。
ガラガラと戸を開けると、そこには叔父が立っていた。
「叔父さん 突然どうしたの?」
「○○ちゃん ずいぶん遠くへ来たんだね」
そんな会話を交わしたところで目が覚めた。
枕元の時計を見ると4時頃だった。
初夏の北海道の朝は早く、既に日は昇り、夏の陽射しに満ちていた。
懐かしいなぁ......叔父さんどうしてるかなぁ.......などとぼんやりと考えていると電話が鳴った。
叔父さんが亡くなった事を伝える電話だった。
毎年 お盆の時期になると思い出す。